三本木原開拓の歴史

三本木原開拓以前

不毛の原野と呼ばれた「三本木原」と、
南部盛岡藩士・新渡戸傳がその開拓に着手することとなった経緯

  • 「三本木(さんぼんぎ)」という地名の由来

    この三本木地方は、十和田山(十和田湖)の噴火によってできた火山灰土壌の扇状地帯で、古くからただ荒漠たる平原であった。そしてこの土質のため雨水もすぐに地中へ入ってしまい、樹木もあまり生えなかった。夏は暑い日差しをさえぎる樹木がほとんど無く、また太平洋からは冷たい「やませ」が吹き、冷害を起こし、冬は西北から吹く「八甲田おろし」のためものすごい吹雪となり、この平原で凍死する者が多かった。古くは、主に馬の放牧地帯となっており人が住むのにはあまり適さなかった。この場所に遠方からも良く見える三本の「白たも」の木があった。これは根元から三本にわかれた大木で、現在の十和田市元町の北側、大清水神社の境内にあったという。人々はこの大木を三本木と呼び、いつの頃からかこの地方を三本木、平原を三本木平と呼ぶようになったと伝えられている。 いつの時代かわからないが、作助という百姓が盛岡から鍬一本かついで来て、この三本木を最初に切りひらいたといわれている。これが今の十和田市元町のあたりである。

  • 昔の三本木のようす

    寛文5(1665)年の絵図に「三本木村」とあり、三本木村の絵図としてはこれが最古といわれている。現在十和田市元町の桜田家(三本木村の「肝煎」を長くつとめ孫七という屋号を持っている)に所蔵されている。 その頃の三本木は南部領七戸代官所の支配を受け、七戸通三本木村といい、村全体の面積はかなり広かったが民家は今の元町を中心に4、50戸ほどで、石高(収穫量)も少なく貧しい小さな村だった。例えば安永 9(1780)年の村高は51石余り、一戸平均では年約一石で、一石は目安として大人一人が一年間に消費する米の量であるから、一家族あたりに一人分の米しかなかったのである。このような状態なので、当時白米は、お正月やお盆の時か、病気になった時しか食べられず、普通は粟、稗、大豆、蕎麦を中心に食べていたという。又、南部藩では凶作が10年あるいは5年、もっと早いと3年毎に来て、白米を食べる事が夢の様だったと色々な記録に書かれている。飢饉は深刻で、天明3(1783)年の大飢饉後には当時三本木村に52軒あった家がわずか26軒に減ってしまったほどであった。 ※南部藩の凶作は江戸時代約250年の間に76回もあった。その中で元禄、宝暦、天明、天保の飢饉は最もひどく「南部藩四大飢饉」といわれる。

  • 三本木原の範囲

    古くは三本木平、その後三本木原といわれたが、今は「三本木原台地」といっている。青森県十和田市を中心とし、上北郡の東部に位置する広く平坦な台地で東西40㎞、南北32㎞の面積を占め、現在の十和田市ほか六戸町、三沢市、おいらせ町の二市ニ町にまたがる地域である。

  • 当時の南部盛岡藩

    江戸時代、三本木原は南部盛岡藩領内にあり、同藩は陸奥国岩手郡盛岡(現岩手県盛岡市)に藩庁をおき、その領地は陸奥国北・三戸(以上青森県)・二戸・九戸・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀(以上岩手県)・鹿角(秋田県)の10郡に及ぶ広大なものだった。しかし、冷害が多く、凶作、飢饉が何度もあり、加えて幕末になると蝦夷地警備を幕府から仰せ付かったことで更に財政が逼迫し、農民の生活は悲惨なものとなった。当時は藩の建て直しのため新田開発は重要な課題であり、ついに安政元(1854)年、その打開策として藩は「十ヶ年士」を発令したが、これは格下の武士から身分と家禄を取り上げ、10年の猶予期間内に新田開発で成功した者や学問や武芸で認められた者だけを、再び藩に召し抱えるという制度だった。新田開発については、それによる石高を禄に10年を待たず召抱えられるため、にわかに藩内に新地開墾熱が沸き上がることとなり、それが三本木原開拓の直接の発端となった。

  • 開拓の祖 新渡戸傳

    南部盛岡藩士・新渡戸傳は 文政3(1820)年27才の時、花巻の兵法師範だった父・維民(謙信流軍学師範)が、花巻城縮小の藩議に反対したとして北郡川内(現・下北郡川内町)へ流された折、父と共に川内へ行き、禄を取上げられた父を養うため商人・安野屋素六(屋号・太)となって下北や十和田湖周辺の材木を江戸で売り大きな利益を得た。この商人時代に傳は度々三本木原を往復し、この広大な三本木原が耕地として利用されていないのを国家的損失と考え、いつかここを大規模に開拓しようとの念願を持つようになったと伝えられる。そして、商人の余暇に京都、大阪、四国など旅する間、各地の産業を広く見聞し、特に開墾経験者を訪問するなどして上水、開田の新法を研究した事が後の開拓事業に役立ったという。 文政9(1826)年、父維民は藩への帰参がゆるされ、材木商をしていた傳も天保9(1838)年、45歳の時に南部盛岡藩士にもどった。傳はその後、商人時代に学んだ事を生かして領内の開墾に着手。岩手、志和、和賀、稗貫、(現・岩手県)の4郡21の村で開拓を成功させ、それらの功により嘉永元(1848)年には勘定奉行となった。さらに嘉永3(1850)年に傳は、新渡戸宗家・新渡戸佐金吾(因幡ともいい、盛岡藩家老・新渡戸丹波の曾孫)の名で小規模ながら三本木原内の北郡相坂村(現・十和田市)、犬落瀬村(現・六戸町)の2 つの村で開拓を行い、三本木原大規模開拓への自信を深めた(これにより傳は合計5郡23の村、300haを開田)。その後も各所で開墾を行い、南部藩内でも傳は「開拓のエキスパート」と目されるようになっていった。

  • 志を一つに三本木原開拓に着手

    安政元(1854)年に藩が発令した「十ヶ年士の制」(格下の武士から身分と家禄を取り上げる制度。武芸で認められた者のみ10年後召し抱えられ、新田開発を行えばその石高を禄に召し抱えることとなっていた。)に該当する者たちの多くが開拓を志し、当時藩内各所で実績を上げていた新渡戸傳のもとに開墾適地選択の依頼に集まった。 十ヶ年士たちから相談を受けた傳は、若い頃から志していた三本木原大規模開墾の実現の機会と考え、志を同じくする人々と協力し、安政2(1855)年4月開拓願いを藩に提出、8月に許可され三本木新田御用掛として工事に着手することとなった。 傳は和賀・稗貫郡に居住する「南部土方衆」に工事を依頼し、ともに三本木に向かった。南部土方衆の住む地域では古くから用水路工事が盛んで、彼らは代々伝えられた高い技術を持っており、農民でありながら藩内外から依頼を受けて水路工事を請け負っていた。 資金協力者には、侍商人と揶揄されながらも開拓の志を持って蓄財に励んだ八戸藩士・蛇口伴蔵など、藩のため、領民のためにこの事業に関わった者もいた。南部盛岡藩の危機的状況に、武士だけでなく、商人、農民、職人など、各階層の志ある人々が傳のもとに力を集結させたことが、三本木原開拓の実現と成功につながったといえる。

三本木原開拓の概要

稲生川開削にはじまる新田開発としてスタートしつつ、
都市計画、産業開発、まちづくりなど、
ソフトハード両面におよぶ総合開発へと発展していった開拓事業の全体像について

  • 稲生川をつくる

    広い三本木原に田畑が少ない一番の原因は、周辺の川が低地を流れている事だった。川よりも高い場所ではその水を十分に利用できず、人々は川沿いの低地か、湧水をたよりに小規模に田畑を開いていた。そこで傳は、奥入瀬川から水を取り三本木原に上水して太平洋岸まで達する新しい川を作り、広い台地上で大規模に開拓を行おうと考えた。しかし三本木原は台地で、一番差のある所では奥入瀬川より30mも高くなっているため、上水するには奥入瀬川の上流にさかのぼって水の取り入れ口を設け、途中穴堰(トンネル)を通して三本木原まで水路をつくるしかなかった。
    安政2(1855)年9月工事に着手し、鞍出山穴堰(熊ノ沢~矢神・1412間=2540m)天狗山穴堰(法量~段ノ台/900間=1620m)の二つの穴堰と陸堰(矢神~三本木/3980間=約7.2㎞)を掘りぬいた。途中勘定奉行となり江戸詰めを申しつけられた傳にかわって嫡子・十次郎が指揮をとり、安政5(1858)年4月24日仮通水が行なわれたが、途中の水路が壊れたため補修工事を行い、安政6(1859)年5月4日、ついに約4年の歳月をかけて三本木原への上水に成功した。(熊ノ沢川からの上水)川は翌年南部利剛公より「稲生川」と命名され、現在もこの名で親しまれている。
    三本木原への上水は完成したが、当初予定していた太平洋岸までの通水には水量が足りない事がわかり、十次郎が中心となって第二次上水計画を立てた。この計画では取水口をさらに上流に設け、穴堰を三本掘り、もう一本の水路を稲生川に合流させ、水量を増やして太平洋まではもちろん多くの支流に水を供給しようと考えていた。そしてこれには、むつ運河(小川原湖からむつ湾に直接通ずる運河)開さくをはじめとする小川原湖開拓計画、野辺地、田名部、下北、大畑方面の開拓計画も含んでいた。慶応2(1866)年すでにある鞍出山穴堰の北側で穴堰工事に着工したが翌年十次郎が亡くなり、明治維新の混乱もあって計画は未完成に終わった。この第二次上水計画はその後国営開墾事業によって受け継がれ実現されている。

  • 田畑をひらく

    安政2(1855)年に始まった上水工事と平行して各所で開田が行われた。当初は三本木村内の他に、当時の相坂村(小稲、高清水)、藤島村、折茂村、吉田村、百石村(深沢、一川目、二川目、三川目)内での開田も計画されており、2500町歩(2500ha)の開田とともに、3000石の収穫を見込んでいた。安政2年の開拓着手と同時に取水口から遠くはなれた百石村でも開田事業に着手している事はあまり知られていないが、当初から太平洋岸まで通水する計画だったので、早くからこれらの地域の開田に着手していた。
    上水成功の翌年、万延元(1860)年に初めて作付けが行われ、その年の秋に米45俵を収穫した。その5年後、慶応元(1865)年新田検地が行われ、開田は300町歩、930石余の石高をあげた。その後さらに十次郎の立てた第二次上水計画によって10万石から数10万石の収穫を上げる予定だったが、前述の通り十次郎の死による工事中止などで未完に終わり、昭和41(1966)年に終了した国営開墾によって成しとげられた。

  • 町をつくる―十次郎の都市計画―

    安政6(1859)年上水が成功すると、本格的に新町の建設が始められた。三本木の新町は十二町四方碁盤目状の都市計画をもとにつくられていった。これは、上杉流の兵法に基づき、又京都の市街を模して考えられており、往還を中心に東西南北十二町四方、本道路は八間、裏通は6間の道幅とした。通常1間は6尺(1.82m)で計算されるが、区画整理を行なうにあたっては6尺5寸(1.97m)をもって一間としているので、表通りで約16m、裏通りでも約12mと大変広い道路を計画している。
    このように、傳の上水と開田を中心とした三本木原開拓の構想をさらに拡張し、雄大な都市計画まで考えたのは、嫡子・十次郎であった。区画整理とともに街の中に用水路を設け衛生面、防災面に配慮するのはもちろんの事、住宅区域、耕作区域、商業区域などの土地利用区分も行なっており、今日近代都市計画の先駆的な例として注目されている。この時代を先取りした都市計画は、十次郎、傳亡き後、生産力の向上を第一目標に上水や開田を重視する時代の流れの中でなかなか実現されなかったが、戦後の復興期に再び注目され、十次郎の計画した街割りと道路計画をほとんどそのまま踏襲する形で十和田市中心街が整備され、現在にいたっている。

  • 産業開発

    傳と十次郎は新しい町に様々な産業をおこすことを考え各地から教師を呼び、人々に養蚕、瀬戸物焼出し、鋳物、製革などの方法を教えさせた。近郷の農家と新町・稲生町の交易の場として、六の日を市日と決めて市場も開いた。又、三本木は南部駒の産地でありながら掫市がなかったので、文久2(1862)年、稲生町に掫駒市場を開設したが、この馬市には全国から人が集まって後に「三本木の馬市」として有名になり、町の発展に大きな力となった。 他に、凶作に備えるため、さつま芋の試作をしたり、ジャガイモの種芋を分け与え植えさせるなどの農事指導も行った。このジャガイモ栽培は青森県で最初といわれている。それでも凶作となった時には、傳をはじめとして新渡戸家一族が出資し住民の離散を防いだという。こうして段々と人も多くなり家なみも増え新町・稲生町は活気に満ちていった。

  • 防風林を植える

    三本木原は火山灰土壌のため昔から樹木があまり生えず冬はこの平原で凍死する旅人が多かったが、文政年間(1818~1830)になると盛岡藩では奥州街道沿いを中心に防風林の植え立てを行い、七戸代官により三本木植立奉行が設置された。法量、深持、三本木、洞内、馬洗場、大沢田、八斗沢、立崎、新館、大浦、上野、二ツ森、作田、野崎、花松、中岫、天間館、榎林、甲地の十九か村に夫役勤務の制を定め、防風林設置場所から三里(12㎞)以上遠くに住む者は一人につき、高さ6尺(1.8m)幅六尺の土手を2間(3.6m)ずつ、三里以内に住む者は3間(5.4m)ずつ築き、土手の上一坪(3.3㎡)ごとに十二本の雑木を植えさせた。三本木植立奉行はこの植え立ての監督を行った。
    天保9(1838)年、45才の時傳は、田名部、野辺地、七戸山奉行(山林方兼役)として防風林の植え立てに尽力し、翌天保10(1839)年、更に大槌、宮古、野田、五戸の御山奉行兼帯山林方も仰付けられ、ますます力を尽くした。そしてこの頃、三本木地域に「鍵の手型」防風林がいくつか完成しており、旅人の困難を救うと同時に農作物を守り、後の三本木原開拓への大きな助けとなった。
    安政2(1855)年から着手された三本木原開拓事業の中で、三本木での防風林植え立ては以前にもまして力を入れ行われた。傳、十次郎は、新町・稲生町を風から守るため大型の防風林を東西数ヶ所に設置している。
    明治17(1884)年軍馬補充部が三本木に入っても昔からの防風林を受け継ぎ、防風林造成事業を行った。現在、昔の名残りをとどめる大樹はそうした歴史を物語っている。

  • 人々の心のよりどころ ―神社仏閣の建立―

    都市計画に基づくまちづくり事業として、新しい町の人々の心のより所に神社仏閣の誘致を行い、稲荷神社、澄月寺、理念寺などを新町に建立した。これらの寺社には土地と寄進の水田も提供し、地ならしや建築その他にかかった経費は莫大なものであったという。神社仏閣の建立は、特に十次郎が指揮をとり行なった。これらの寺社は、現在も人々の信仰を集めている。

受け継がれた三本木原開拓

明治、大正、昭和と時代が変化する中、
新渡戸三代(傳・長男十次郎・孫・七郎)の志を受け継ぐ人々の力で三本木原開拓が続けられ、
国の事業として結実して現在に至る経緯について

  • 明治時代~開拓継続の危機~

    傳の長男・十次郎は慶応3(1867)年47才の若さで逝去し、翌明治元(1868)年には十次郎の長男・七郎が新田御用掛を受け継いだが、明治維新の混乱期に藩の事業であった三本木原開拓は継続すら難しい時期を迎えた。明治2(1869)年七戸藩大参事となった傳は、翌3年三本木原開拓国営化の願書を明治政府に提出したが、明治4(1971)年78歳で没した。その後は七郎が中心となり、戊辰戦争(1868~1869)に敗れて移住先をもとめていた旧会津藩士(=斗南藩士)の一部を受け入れ、斗南藩士たちは明治政府の士族授産政策により開拓の担い手となったが、慣れない開墾に離散者もあり、稲生川の管理もままならず、開拓地の荒廃が進んだ。 この危機を救ったのが明治9(1876)年、14(1881)年の明治天皇御巡幸だった。明治天皇は旧開拓事務所である三本木新渡戸邸に、9年に御小休、14年は行在所として御宿泊になり、傳の開拓事業を御賞賛され、それを契機に地域民の開拓の機運が高まった。明治17(1884)年には上北郡長・藤田重明(旧斗南藩士)、中島庄司(元会所役人)らを発起人に三本木共立開墾会社が設立され、稲生川の水路の補修、延長、開墾をすすめた。 明治27(1894)年には実業界の大御所・渋沢栄一の助力を受けて株式会社に組織変更し、稲生川は明治末頃までに太平洋岸までの水路が完成した。渋沢は明治23(1890)年に三本木原の東側、十和田市から六戸町、おいらせ町にまたがる広大な「渋沢農場」を開設、農場経営を通して地域の発展に尽力した。

  • 大正時代~稲生川の水利権紛争~

    稲生川の下流への水路延長に伴い、大正時代には稲生川の水利権紛争が勃発した。大正6(1918)年頃、元村(現市内元町)に土地を持つ人々が、開墾会社に無断で稲生川から分水開田したことを発端に、下流へと開墾地を広げようとする会社側と稲生川の上流に土地を持つ地主側の二派に分かれ争うこととなった。紛争は町全体を巻き込んで4年間も続き、両派とも争いに疲れ、開墾会社の大株主・渋沢栄一に仲裁を依頼した。渋沢は東京帝国大学農学部原熈教授に調査を依頼し、原教授の調査助手であった水野陳好氏(後第5代渋沢農場長)が策定した協定案によって水利権紛争は決着した。下流の開田を進める稲生耕地整理組合組織会と、上流の水路利用を管理する稲生川普通水利組合が設立することとなり、水利組合は開墾会社に当時の金額で35000円を支払い、開墾会社は二つの組織に役目を譲って大正10(1922)年解散した。

  • 昭和初期~三本木原開拓国営化運動~

    昭和初期には人口増加や凶作による食糧不足などが現れ、政府内においても大規模国営開墾が提唱され、地元でも稲生耕地整理組合組織会によって、三本木原国営開墾実現への本格的な取り組みが始められた。組織会は奥入瀬川からの取水量を増やして木ノ下(現おいらせ町)にため池を造り300haを開田する計画を県に陳情したが、下流の水利団体などが同意せず、断念せざるを得なかった。更に組織会理事長である渋沢農場長・水野陳好が中心となり、昭和2(1927)年、上北大規模開墾期成会(後三本木原大規模開墾期成会)を設立、十和田湖の水位を調節して、奥入瀬川の水量を増やす計画を提出した。同年、十和田湖が国の名勝天然記念物に指定され、開発反対論が巻き起こると、期成会は渓流を損なわずに導水する代替策として、直接十和田湖岸の青橅から水路を掘削し取水する方法を提示し、奥入瀬流域の水力発電開発も含めて、県や国への陳情を重ねた。ヤマセ地帯であること、水の土壌浸透量が大きいこと、寒冷地での大規模開田の不安など、国が着手に躊躇する問題点に対し、耐冷品種の開発、防風林設置の提唱、土壌改良や水田の水漏れを防ぐ床締め対策をあげて、粘り強く理解を求めた。 昭和11(1936)年には十和田湖の国立公園指定を受け、自然保護の点から、国営開墾は不可能と思われたが、翌12(1837)年約10年におよぶ陳情活動が実り、帝国議会の採決を得て三本木国営開拓建設事業が開始された。この国営化実現には、陳情に水野陳好が上京した折、三本木原大規模開墾期成会顧問として窓口となった貴族院議員・新渡戸稲造の尽力があった。

  • 昭和12~41年~三本木国営開拓建設事業~

    三本木国営開拓建設事業は戦前戦後を通じて行われ、国は十和田湖の水位を調節して奥入瀬川の水量を増やし、稲生川取水口の上流にもう一つ取水口を設け、二つの穴堰を含む水路を新たに掘削し、稲生川にその水路を合流させた。これにより、三本木原全域に行きわたる水量を確保すると同時に、太平洋まで至る幹線・支線水路も整備し、県と耕地整理組合組織会で開田、開墾工事や移住者のための住居施設等も整えた。また、国は奥入瀬流域に5つ(現在は3つ)の水力発電所を設置し、発電後の水をこの国営水路へ流して農業用水への活用を図った。 国営水路の計画は慶応2(1866)年新渡戸十次郎により着手された第二次上水計画と重なるが、くしくも十次郎の工事着手から百年後、昭和41(1966)年に完成した。昭和41年時の開墾面積は3376ha、畑5,947haとなり、傳が計画した2500町歩(2500ha)の開田を実現した。

  • 昭和後期~平成~時代の変化とともに流れる稲生川~

    戦後の農地改革にともない、稲生川の管理を行ってきた普通水利組合は組織が変わり、現在の稲生川土地改良区(水土里ネット稲生川)に受け継がれた。更に昭和53(1978)年に開始された国営相坂川左岸地区かんがい排水事業(のち相坂川左岸農業水利事業)では、国営と県営で稲生川の補修や用水開発が行われた。市民の声に応える形で自然環境・生活環境保全、親水等の機能を高める施設「法量農村公園」「稲生川ふれあい公園」「一本木沢ビオトープ」なども誕生し、平成18(2006)年度に同事業は完了した。 その後は貿易自由化、農家の担い手の減少、高齢化など農業を取り巻く厳しい現状と、平成23(2011)年東日本大震災発生を踏まえ、平成25~26(2013~14)年度に農家の負担軽減、㏇2削減を目的に、小水力発電施設が県によって稲生川の京ノ舘合流工に設置されることとなった。 幕末から受け継がれた稲生川は、多くの人々の努力により、それぞれの時代に求められる姿に生まれ変わりながら、更に未来へと流れていく。

三本木原開拓に尽した人たち

稲生川の開削と各時代の三本木原開拓を担ったおもな人物について

  • 新渡戸 傳 (1793~1871)

    南部盛岡藩士として花巻に誕生。号・太素。文政3(1820)年27才の時父維民が花巻城縮小政策に反対したとして川内(現青森県下北郡)に流され天保8(1837)年44才まで商人となる。30代の頃材木商として十和田山のけやきの切り出しのため三本木原を往来し、三本木原大規模開墾の志を持ったと伝えられる。任官後は勘定奉行などを歴任し、安政2(1855)年十ヶ年士の制を契機に62才で三本木原開拓に着手した。明治4(1871)年三本木で逝去(78才)。自ら建立した墓「太素塚」(市立新渡戸記念館敷地内)に埋葬され、三本木原の発展を今も見守っている。

  • 新渡戸 十次郎(1820-1867)

    新渡戸傳の長男。花巻生まれ。22才中奥小姓、32才盛岡藩主・南部利剛公兵学御相手。33才奥御勘定奉行。文久3(1863)年43才の時、御用銅増産政策の功で側用人となる。安政4(1857)年傳にかわって、新田御用掛として開拓の指揮をとると、傳以上に開拓に心血を注ぎ、碁盤の目状の都市計画で稲生町を建設。地域の総合開発へ事業を拡大し、むつ運河開削も着手した。都市計画やまちづくりに関する取り組みは、万延元(1860)年に十次郎がまとめ、新渡戸家三代(傳、十次郎、七郎)の連名で発表した「三本木平開業之記」に集約されており、三本木原開拓が単なる地域の農業生産高向上を目指した新田開発ではなく、救民扶助も含めた幅広い視野に立つ総合的地域活性化策であったことが記されている。慶応2(1866)年6月十次郎は第二次上水計画に着手するが、江戸詰中に藩財政策と開拓費用捻出を考え取り計らった外国人への生糸販売の約定に不行き届きがあったと讒言される。翌3(1867)年9月廃嫡の上、蟄居処分を受け、心痛から同年12月24日病没。享年48歳。

  • 新渡戸 七郎 (1843-1889)

    十次郎長男。花巻生まれ。中奥小姓、南部利恭公兵学御相手をつとめる。14才から三本木原開拓に尽力し、明治元(1868)年三本木新田御用掛となる。明治2(1869)年盛岡藩権少参事となるが、明治4(1871)年傳逝去のため、開拓の志を継ぐべく青森出仕を願い出て七戸出張所管村授産掛三本木出張所詰となる。困窮する斗南藩士(旧会津藩士)の開拓地入植受け入れの救済事業に携わる。明治6(1873)年辞職し、開拓の経験を活かして農商務省土木技術者となり福島県安積疏水、那須疎水工事に従事した。43才辞職後土木会社「現業社」を起し、岩手県鳥越トンネル工事に携わるが、工事中に病没(46才)。

  • 水野 陳好(1895~1991)

    富山県松任市出身。東京大学農学部実科卒業後、渋沢栄一の目に留まり、大正9(1920)年第5代渋沢農場場長に就任。昭和27(1952)年の農場解散まで務めた。昭和2(1927)年三本木原大規模開墾期成会の副会長就任。12(1937 )年までに379回もの陳情を行い国営開墾事業を実現に導いた。農学者として耐冷新品種の陸稲「水野黒餅」を完成させるなど、地域の農業振興に力を尽くした。初代三本木市長、十和田市名誉市民。

  • 渋沢 栄一(1840~1931)

    明治期の実業家。第一国立銀行を経営し、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業設立に関与、「日本資本主義の父」と言われる。三本木原開拓においては、第一国立銀行八戸支所の不祥事などで経営難に陥った共立開墾会社を、第一銀行の経営者であった縁から援助し、大株主となって明治23(1890 )年「渋沢農場」を開設、前谷地(現十和田市東二一番町)に事務所を置いた。農場経営においては利益のためでなく、新渡戸傳の「大志」を継いで行う事業であると語っていたことが伝えられている。

  • 新渡戸 稲造 (1862~1933)

    新渡戸十次郎三男。盛岡に誕生。三本木原開拓の初穂に因み稲之助(翌年稲造)と名付けられた。明治9(1876)年、明治天皇が三本木御巡幸の折に発せられた「子々孫々農事に尽くすように」との御言葉から、自らも農業開拓者を志して翌10(1877)年札幌農学校へ進学。卒業後、米独留学を経て札幌農学校教授、京都東京帝大教授、一高校長を歴任。農学、法学博士。『BUSHIDO-The soul of Japan-』(1900年)の執筆や国際聯盟事務次長として国際平和に尽くしたことが有名だが、農業開拓事業としても、台湾総督府技師(後に糖務局長)時代に『糖業改良意見書』をまとめ、砂糖産業を台湾経済の基礎となるまで発展させた。『BUSHIDO』と並び称される主著に、農業を「国の礎」として見直した『農業本論』(1898年)がある。昭和2(1927)年貴族院議員当時、三本木原大規模開墾期成会が設立されると顧問に就任し、国営事業化の陳情に水野陳好が上京した折の窓口となって三本木原開拓の発展へも貢献した。

  • 南部土方衆

    稲生川の工事を行った「南部土方衆」は和賀・稗貫地方(現岩手県北上市・花巻市)に多く居住し、依頼があると頭取以下一統で出稼ぎに行く半農の土木技術者集団。稲生川工事の総頭取をつとめた後藤村・吉助(後 八重樫吉助)は特に穴堰工事を得意とし、新渡戸家の知行地・江釣子村の十兵衛のグループは陸堰工事を専門とした。和賀・稗貫地方には和賀川から取水して江戸時代の初めに作られた奥寺堰があり、この堰の工事技術者の子孫が代々伝わる技術で地域の用水路開削工事、補修工事などを行ない土方集団を形成していったのではないかといわれている。彼らは時に他領にも雇われ、吉助は仙台城下の四ツ谷堰の掘り替え工事をはじめ、仙台領でも多くの工事を手がけた。